로그인「天道様。奥様は、反応されています。まだ状態は不安定です。ですが……意識の回復が始まっている可能性があります」 可能性。 たったそれだけの言葉で、征也の胸は壊れた。 処置が終わり、莉子の口元を覆っていた器具が一時的に軽い酸素マスクへ替えられる。すぐに長く話せる状態ではない。医師は短く説明し、無理をさせないようにと何度も念を押した。 征也は頷いているつもりだった。 けれど、実際には何も聞こえていなかったのかもしれない。 莉子が、彼を見ていた。 それだけで、十二年分の世界が一度に戻ってきた。「……泣かないで」 空気が擦れるような声だった。 征也は固まった。 莉子の唇が、もう一度、かすかに動く。「征也くん」 その呼び方に、征也は完全に崩れた。 声にならない声が喉から漏れる。魔王と呼ばれ、冷酷な支配者として恐れられ、どんな場でも膝を折らなかった男が、ベッドの脇で声を殺して泣いた。「莉子……莉子、莉子……」 名前を呼ぶことしかできない。 それ以外の言葉は、すべて涙に溶けてしまった。 莉子の視線が、征也の濡れた頬をゆっくりなぞる。 腕を上げようとして、途中で力が抜けた。征也は慌ててその手を支え、自分の頬へ押し当てる。 莉子の指先は、まだ驚くほど細く、頼りなかった。 けれど、そこには確かに彼女の意志があった。「聞こえてた」 莉子は、ひと息ごとに言葉を落とした。「ぜんぶ、じゃ……ないけど」 征也は息を詰めた。「声が、したの。低くて、怒ってるみたいで……でも、いつも、泣きそうな声」 莉子の瞳に、薄く涙が滲む。「毎日、話してくれたでしょう」 征也は、何度も首を横に振った。 違う、と言いたかった。あれは自分勝手な独白だった。返事がないことに甘えて、莉子に縋り、自分
スピンオフ第183話:おかえり、私だけの魔王① 征也は、最初、それを錯覚だと思った。 十二年も待ち続けていれば、人は都合のいい幻をいくらでも見る。指先が動いた気がする。まぶたが震えた気がする。声にならない声が、自分の名前を呼んだ気がする。 そのたびに、征也は期待して、すぐに自分を戒めた。 奇跡などない。 数字は冷たく、医師の説明は慎重で、朝はいつも何事もなかったようにやって来る。 だから、莉子の指が掌の中でかすかに力を帯びた時も、征也はすぐには顔を上げなかった。「……また、俺の都合のいい夢か」 掠れた声で呟く。 だが、次の瞬間。 莉子の指が、もう一度、征也の手の内側を弱く押した。 それは、反射にしては遅く、偶然にしては確かだった。 征也の呼吸が止まる。 顔を上げるまでの一秒が、ひどく長かった。 ベッドの上で、莉子の睫毛が震えている。病室の淡い朝の光を受けたその睫毛は、薄い影を白い頬に落としながら、何度も、何度も、小さく揺れた。「莉子」 声が出たのか、自分でも分からなかった。 扉の外で、陽向が弾かれたように一歩踏み出す。結衣がその腕を掴み、二人は息を詰めたまま病室の中を見つめた。 莉子のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。 眩しさに耐えきれないように、瞳が細く震えた。 琥珀色の瞳。 十二年間、征也が夢の中で何度も見た色だった。 その瞳が、ぼやけた天井を映し、白い照明を映し、やがて、涙で濡れた征也の顔を捉えた。 征也の身体から、力が抜けた。 膝が床に落ちる。椅子が後ろへずれ、かすかな音を立てる。だが、征也の手は莉子の手を離さなかった。離せるはずがなかった。「……莉子」 今度は、声になった。 喉の奥から絞り出した名前が、病室の白い空気に溶けていく。 莉子の唇が動いた。 乾いた唇は、すぐには言葉を作れない。呼吸の管に支えられてきた身体は、長い眠りから急に戻されたばかりで、声
莉子は眠ったままだ。 「だから……一度でいい」 征也の喉から、子供のような息が漏れた。 「一度でいいから、俺の名前を呼べ」 その瞬間、病室の扉の外で、小さな衣擦れの音がした。 征也は気づかなかった。 扉は、完全には閉まっていなかった。看護師が出入りした時に、ほんの指一本分だけ隙間が残っていたのだ。 その向こうで、陽向と結衣が立ち尽くしていた。 陽向は、握っていたスマートフォンの電源を落とすことも忘れていた。画面には父からの短いメッセージが残っている。 ――莉子に変化があった。まだ確定ではない。来られるなら来い。 命令のようでいて、初めて共有された弱さだった。 陽向は、扉の隙間から見える父の背中を見つめた。 かつては壁のように巨大だと思っていた背中が、今はベッドの脇で折れ曲がっている。莉子の手に縋りつき、顔を上げることもできず、何度も、何度も謝っている。 陽向の胸に、長く張りついていた硬いものが、ほんの少し形を変えた。 怒りは消えない。けれど、目の前の父は、初めて弱い人間の顔をしていた。 そう分かったからといって、陽向の中の怒りがすべて消えるわけではなかった。十二年の孤独は、たった一夜の懺悔で帳消しにできるほど軽くない。 それでも、父が怪物ではなく、怪物のふりをしなければ立っていられなかった人間だったのだと、初めて思った。 隣で、結衣が両手で口元を覆っている。 涙が、指の隙間から零れていた。 理想の父。完璧な父。どんな願いも叶えてくれる、強くて冷たい魔王。 その幻が、音もなく崩れていく。 崩れた下にいたのは、莉子の名を呼ぶことしかできない、不器用すぎる夫だった。 結衣は胸の奥を押さえた。 レイに拒まれた夜の痛みが、遠い場所で微かに疼く。 あの時の自分も、相手を見ているつもりで、本当は自分の寂しさばかり見ていたのかもしれない。 唇を噛むと、涙の味がした。 病室の中で、征也はまだ莉子の手を握っていた。 「戻ってこい、莉子」 声は、もう命令で
「莉子」 名前を呼んだ瞬間、喉が震えた。 もう、報告では逃げられなかった。「俺は……」 言葉が出ない。 十二年前から、ずっと胸の奥に沈めてきた一言がある。認めてしまえば、自分のしてきたすべてが崩れる。莉子を守るためだと積み上げてきた城が、ただの独りよがりな檻だったと認めなければならない。 征也は、莉子の手を額に押し当てた。 冷たい指先に、熱い呼吸がかかる。「俺が、間違っていた」 ようやく吐き出した声は、ひどく小さかった。 だが、その一言は病室の白い壁にぶつかり、逃げ場もなく征也へ跳ね返ってきた。「守っているつもりだった。お前を、世界の汚いものから遠ざけて、傷つかない場所に閉じ込めておけば、それでいいと思っていた」 莉子のまぶたは動かない。「違う。俺は、お前を守ったんじゃない。奪ったんだ」 言い切った瞬間、胸の奥で何かが折れた。 征也の肩が落ちる。背筋を支えていた見えない鋼線が、一本ずつ切れていくようだった。「お前の自由を奪った。息苦しさも見なかった。愛していると言いながら、お前が何を望んでいるか、聞こうともしなかった。俺の手の届く場所にいれば安心できる。俺が安心したいだけだった」 掌の中の莉子の手は、相変わらず細い。 事故の日から、少しずつ肉が落ちてしまった手。かつては陽向の頬を叩き、結衣の髪を結い、征也の不器用なネクタイを直してくれた手。 その手に、征也はどれだけ縋ってきたのだろう。「莉子が倒れてからも、俺は同じことをした。眠っているお前をこの部屋に閉じ込めて、誰にも触れさせず、誰にも近づけず、俺だけが分かっているような顔をしていた」 声が、少しずつ崩れていく。「子供たちを守ると言いながら、見ていなかった。陽向がどんな顔で家を出たか。結衣がどれだけ俺の顔色を窺って笑っていたか。知っていたはずなのに、見なかった。見れば、自分が壊したものを認めなければならなかったからだ」 征也は歯を食いしばった。 それでも、涙は止まらなかった。 一滴、莉子
夜明け前の病室には、静けさだけが戻っていた。 数時間前、莉子の脳波にこれまでとは違う揺らぎが現れた。担当医は慎重な顔で、断定はできない、と何度も繰り返した。外部刺激への反応の可能性。浅い眠りと深い眠りの境目に似た波形。医学的には、まだ希望と呼ぶには早すぎるもの。 それでも、征也には十分すぎた。 十分すぎるほど、怖かった。 医師たちが経過観察へ移り、看護師が計器の数値を確認して病室を出ていくと、白い扉が音を吸い込むように閉まった。廊下の足音が遠ざかり、人工呼吸器の規則正しい音だけが、また莉子の傍らに残る。 征也はベッドサイドの椅子に座り直し、莉子の手を両手で包み込んだ。 冷たい。 けれど、完全な冷たさではない。皮膚の奥に、ごく細く、消えかけの火種のような体温がある。十二年間、征也はその火種だけを信じてきた。 信じてきたはずなのに。 今夜だけは、その小さな温度が、刃物のように胸を切った。「……陽向がな」 いつものように、征也は報告から始めた。 報告ならできる。業績の数字を読み上げる時と同じように、感情を閉じ込め、事実だけを並べればいい。莉子が眠り続けた十二年間、征也はそうやって、毎夜この病室に言葉を置いてきた。「俺のところで学ぶと言い出した。営業の現場からだ。あいつらしい。最初から役員室に座らせろと言えば簡単だったが、陽向はそれを選ばなかった」 莉子の指先を親指でなぞる。「似ている。嫌になるほど、俺に似ている。怒り方も、守ろうとする時に力で押し切ろうとするところも、相手の怖がる顔に気づくのが遅いところも」 そこで、言葉が少しだけ途切れた。 酸素を吸い込んでも、胸の奥まで届かない。喉の奥に、ざらついた石のようなものが引っかかっていた。「だが、俺よりはずっとましだ」 征也は、莉子の手を握る力を弱めた。 強く握れば壊してしまう。そんな当たり前のことに、ようやく気づき始めた自分が、ひどく滑稽だった。「陽向は、相手の顔を見る。怖がらせたと気づけば、手を離そうとする。……
征也は莉子の手を握りしめたまま、その顔を覗き込んだ。 開け。 目を、開いてくれ、莉子。 征也の喉の奥から、うめきのような祈りが漏れる。 モニターの数値が、さらに激しく変動する。 まるで誰かと会話をしているかのように、脳波のパターンが複雑な形を描く。 莉子のまぶたが、ゆっくりと、ひどく重そうに持ち上がった。 征也は息を止める。 莉子の瞳が、光を求めて彷徨っている。 焦る気持ちを抑え、征也は莉子の頬に手を添えた。「莉子……帰ってきたのか」 莉子の唇が、微かに開く。 呼吸器の空気がシューッと漏れ、かすかな音が唇の間から紡がれる。 それは、言葉にならない、無意味な吐息だった。 莉子は再び目を閉じ、長い溜息と共に、深い眠りの中へと沈んでいった。 モニターの数値が、ゆっくりと、元の一定した波形へと戻っていく。 征也は、肩から力が抜けるのを感じて、その場に崩れ落ちそうになった。 まだ、だった。 莉子は帰ってきていない。 今の反応は、ただの神経の暴走か、あるいは深い眠りの中で見た、一瞬の夢の残滓に過ぎないのか。 征也は莉子の頬を撫でる指先に、自分の額を預けた。 期待した分だけ、全身が泥に沈むような重たさに支配される。「……また、夢か」 莉子の冷たい手を、もう一度自分の胸元へと引き寄せる。 あの日、事故に遭った時。 自分は、彼女を本当に失ってしまったのかもしれない。 自分に見せていたあの温かい笑顔も、優しい声も、すべては十二年前に、アスファルトの上で砕け散ってしまったのではないか。 征也の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ、莉子のシーツの上に落ちた。 窓の外、深夜の街には、まだ暗い闇が広がっている。 病院の廊下では、当直の医師たちが、莉子のモニターの変化について緊急の検討を始めている声が聞こえる。 征也は莉子の手を握ったまま、動かなくなった彼女の横顔をじっと見つめ続けた。
「嫌なら外してみろ。違約金をすべて払って、この部屋から出て行けばいい」 試すような響き。 そんなことができるはずがないと知っていて、私を追い詰めているのだ。 母の命も、これからの暮らしも、すべては彼の手のひらの上にある。 この首輪を外すことは、生きることを投げ出すのと同じ意味を持っていた。「……できません」「聞こえないな」「……外せません。私は……あなたの、持ち物ですから」 屈辱に視界が滲む。 けれ
翌朝。 カーテンの隙間から差し込む光は白いのに、昨日の夜、氷で冷やされたはずの足首だけが、まだ芯が燻っているみたいに熱い。 洗面台の鏡を覗く。髪をかき上げると、うなじに残された赤い鬱血痕が、白い肌の上でやけに生々しく主張していた。指先でなぞると、そこだけ微熱がある。 糊の効きすぎた家政婦の制服に袖を通す。肌を擦るゴワついた感触が、何度も私を現実に引き戻した。 割り切らなきゃいけない。これは母さんの命を救うための仕事だ。 それなのに、頭のどこかで、昨夜の征也の体温を反芻している。私の足に額を寄せた時の、あの飢えたような視線が皮膚に張り付いて消えない。◇ 一階へ降りると、広
「ふぅーっ、はぁっ、はぁっ……」 一度息を吐き出し、再び波が来るのを待つ。 汗で滑る手を、征也が何度も握り直し、決して離そうとしない。 「……せ、や……くん……」 「俺はここだ。お前の前だ。……俺たちの子だ、莉子。俺たちの……証だ」 彼の声は、もう完全に涙声に変わっていた。 あの、他人の感情を踏みにじり、力ですべてを支配してきた冷酷な男が。
狭いキッチンの換気扇が、低く重たいモーター音を響かせている。 午後六時。窓の外の空はすでに鈍色に沈み、冷たい雨がトタン屋根を叩く不規則な音が絶え間なく聞こえていた。 私は丸椅子に腰掛けたまま、プラスチックのボウルの中で合挽き肉をこねていた。 絶対安静の身だ。立って作業を続けると下腹部に嫌な張りが生じるため、三田村さんが調達してくれたキャスター付きの丸椅子が今の私の定位置になっている。 指先に伝わる冷たい肉の感触。 手の熱で肉の脂が溶け出してしまわないよう、ボウルの下には氷水を張った別のボウルを重ねている。塩とナツメグ、少しの黒







