LOGIN「昔、嘘をついた時の罰を覚えているか?」
思考が停止する。 嘘? 罰? 子供の頃の記憶。デコピンや、くすぐり。そんな無邪気なものだったはずだ。けれど、今の彼の瞳にあるのはもっと昏く、粘着質な欲望の色。 「わ、私はもう子供じゃありません……!」 「なら、証明してみろ」 冷笑を浮かべ、握りしめていた片手から何かを取り出した。包み紙の音がして、指先に現れたのは真っ赤なキャンディ。 彼はそれを自分の口に含むと、私の顎を強引に掴んで上を向かせた。 「ん……っ!?」 顔が近づく。 整いすぎた顔が視界いっぱいに広がる。長い睫毛、冷たい瞳、そして濡れた唇。 まさか。 「口を開けろ」 命令と共に顔が覆いかぶさってくる。 首を振って逃れようとするが、顎を掴む力は万力のように強く、微動だにしない。 唇が触れるか触れないかの距離。熱い吐息がかかり、甘い香りとミントの香りが鼻孔をくすぐる。 「い、や……っ」 抵抗の言葉を口にしようとした瞬間、それが合図になったかのように、唇を塞がれた。 思考が白く弾け飛ぶ。 彼の唇は驚くほど熱く、柔らかかった。けれど、それは甘い口づけなどではない。拒絶を力でねじ伏せる、一方的な侵略だ。 「んっ……ふ……っ!」 悲鳴を上げようと開いた隙間を縫って、固い飴玉が滑り込んでくる。 強引に押し込まれた舌先が絡みつく。ザラリとした感触と、転がり込んできた飴の甘さが口の中で混沌と溶け合う。 苺の香り。そして、彼自身のミントとタバコの香り。 息ができない。鼻先が触れ合う距離で、長い睫毛が視界を覆っている。 (あ、だめ……っ) 頭の芯が痺れる。屈辱的なはずなのに、口内を蹂躙されている事実に背筋がゾクゾクと震えた。 体は正直だった。四年ぶりの接触に、恐怖よりも先に歓喜してしまっている。 膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる体を彼の手が支えた。腰を抱く掌の熱さが、薄いエプロン越しに肌を焼く。 チュッ、と卑猥な水音を立てて唇が離された。 「はぁ……っ、はぁ……っ!」 酸素を求めて激しく喘ぐ。口の中には、移された飴玉がコロコロと転がっている。あまりにも甘く、どうしようもなく「彼」の味がした。 「……甘いか?」 唇についた唾液を親指で乱暴に拭いながら、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。 獲物を追い詰め、弄ぶことを心底楽しんでいる顔。 今の彼は、私が知っている「征也くん」ではない。冷酷で、セクシーで、危険な男だ。 「……さいてい」 滲む涙で彼を睨みつけると、鼻で短く笑われた。 「最高の褒め言葉だな。……言っておくが、それを吐き出すなよ。俺からの『給料』だ」 顎を指先で軽く弾かれ、彼は無造作に背を向けた。 「さっさと出て行け。俺はこれから着替えて出かける」 その背中は、つい数秒前に私の熱を奪い、口内を蹂躙した男のものとは思えないほど、凍てついていた。もはや私など、彼の視界の端にも入っていないのだ。 羞恥と混乱で火照る顔をエプロンで隠すようにして、逃げるように部屋を飛び出した。 口の中では、移された苺の飴玉が、逃れようのない甘さで、じりじりと私の粘膜を溶かし続けていた。 ◇ 廊下を駆け抜け、冷たい階段を一段飛ばしで降りる。 心臓の音が耳の奥でうるさい。全身が、彼に触れられた場所からじわじわと溶解していくような感覚。 (馬鹿みたい……私。あんなことされて……あんなに酷い顔で笑われたのに。どうして、心臓が言うことを聞かないの) 通用口を飛び出し、夜の気配が混じる風に当たっても、頬の熱は引かなかった。 口の中の飴玉を噛み砕こうとして――私は、思い止まってしまう。 彼がくれたもの。彼の一部だった、甘い呪い。 そんな惨めな自分に、また一つ、熱い雫が頬を伝った。 ふと振り返ると、二階の主寝室の窓が見えた。カーテンの隙間から、誰かがこちらを見下ろしているような、重い視線を感じる。 逃げられない。 本能が、逃げ場のない檻の気配を察知していた。 私はこの飴玉のように、彼の中で溶かされ、弄ばれ、最後には跡形もなく飲み込まれてしまうのだ。 私は逃げるように走り出した。 けれど、身体の奥に刻まれた熱だけは、いくら走っても振り払えそうになかった。逃げるようにして天道邸を後にした足取りは、ひどくおぼつかない。 夕闇が迫る高級住宅街の静寂が、かえって耳の奥で鳴り止まない心臓の鼓動を増幅させていた。唇にはいまだ、あの甘ったるい苺の香りと、征也の熱い体温がこびりついて離れない。「……っ、ふ……っ」 不意に込み上げてきた涙を、エプロンの袖で乱暴に拭った。 最低だ。あんな屈辱的なことをされ、力でねじ伏せられたというのに、身体はまだ指先の触れた場所を熱く疼かせている。四年前、あれほど残酷に突き放されたはずなのに。無機質な番号ではなく「莉子」と名を呼ばれた瞬間に、愚かな心は歓喜に震えてしまった。*** アパートへ続くいつもの坂道が、今日だけは異様に長く感じられた。 母に、どんな顔をして会えばいいのだろう。 病状も、切羽詰まった金策のことも。すべてを調べ上げられていたという事実に、背筋が凍るような心地がした。偶然、再会したわけではないのだ。最初から、逃げ場のない檻に追い詰めるために、あの大邸宅の門は開かれていたのだ。 狭い玄関を潜り、古びた扉を閉めると、ようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。 けれど、安らぎは一瞬で打ち砕かれる。 郵便受けの中に、一通の厚い封筒が突き刺さっていた。 差出人は、派遣会社の『株式会社サクラ・サービス』。 表面には、朱筆で「親展・至急」の文字が躍っている。 震える指で封を切り、中の書類を取り出した。 そこにあったのは、以前電話で聞かされていた「専属契約」に関する正式な合意書だった。 事務的な文字が整然と並ぶその紙が、自分を縛り上げる鎖のように見えて仕方がなかった。 本来なら、派遣スタッフがクライアントと直接、このような個別契約を交わすことは異例だ。けれど、そこには「天道グループからの多額の寄付に基づく特別措置」という、権力を背景にした逃げ道のない文言が添えられていた。「時給、十倍……?」 記された金額に、息が止まる。 それは、これまでの必死な労働をあざ笑うかのような
「昔、嘘をついた時の罰を覚えているか?」 思考が停止する。 嘘? 罰? 子供の頃の記憶。デコピンや、くすぐり。そんな無邪気なものだったはずだ。けれど、今の彼の瞳にあるのはもっと昏く、粘着質な欲望の色。 「わ、私はもう子供じゃありません……!」 「なら、証明してみろ」 冷笑を浮かべ、握りしめていた片手から何かを取り出した。包み紙の音がして、指先に現れたのは真っ赤なキャンディ。 彼はそれを自分の口に含むと、私の顎を強引に掴んで上を向かせた。 「ん……っ!?」 顔が近づく。 整いすぎた顔が視界いっぱいに広がる。長い睫毛、冷たい瞳、そして濡れた唇。 まさか。 「口を開けろ」 命令と共に顔が覆いかぶさってくる。 首を振って逃れようとするが、顎を掴む力は万力のように強く、微動だにしない。 唇が触れるか触れないかの距離。熱い吐息がかかり、甘い香りとミントの香りが鼻孔をくすぐる。 「い、や……っ」 抵抗の言葉を口にしようとした瞬間、それが合図になったかのように、唇を塞がれた。 思考が白く弾け飛ぶ。 彼の唇は驚くほど熱く、柔らかかった。けれど、それは甘い口づけなどではない。拒絶を力でねじ伏せる、一方的な侵略だ。 「んっ……ふ……っ!」 悲鳴を上げようと開いた隙間を縫って、固い飴玉が滑り込んでくる。 強引に押し込まれた舌先が絡みつく。ザラリとした感触と、転がり込んできた飴の甘さが口の中で混沌と溶け合う。 苺の香り。そして、彼自身のミントとタバコの香り。 息ができない。鼻先が触れ合う距離で、長い睫毛が視界を覆っている。 (あ、だめ……っ) 頭の芯が痺れる。屈辱的なはずなのに、口内を蹂躙されている事実に背筋がゾクゾクと震えた。 体は正直だった。四年ぶりの接触に、恐怖よりも先に歓喜してしまっている。 膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる体を彼の手が支えた。腰を抱く掌の熱さが、薄いエプロン越しに肌を焼く。 チュッ、と卑猥な水音を立てて唇が離された。
目の前で足が止まった。 見上げると、冷酷な光を宿した瞳が私を見下ろしている。視線は私の腕の中――彼自身の匂いが染み付いた枕を抱きしめている両手へと滑り落ちた。「……掃除にしては、随分と熱心だな」 低く、嘲るような声が頭上から降ってくる。「他人の枕の匂いを嗅ぐのが、お前の掃除のやり方か?」 カアッ、と全身の血液が顔に集まる。 羞恥で死にそうだ。弾かれたように枕をベッドに放り投げ、後ずさりする。「ち、違います! これは、シーツを交換しようとして、その……!」「莉子」 名前を呼ばれた瞬間、空気が凍りついた。 彼は知っていた。私が誰か、最初からわかっていたのだ。「せ、せい……や……」「社長と呼べ。今は勤務時間中だ」 動揺など意に介さず、濡れた髪をかき上げる。その仕草一つで二の腕の筋肉が隆起し、水滴が弾け飛ぶ。 四年ぶりに会った幼馴染が、家政婦として寝室にいるのに、彼は道端の石ころを見るような無関心さで背を向けた。「さっさと仕事を続けろ。俺の着替えが終わるまでに、ベッドメイクを完璧にしておけ」「え……?」「聞こえなかったか? 仕事をしろと言っている」 彼はドレッサーの椅子に腰を下ろし、優雅に脚を組んだ。 バスタオル一枚の姿のまま、鏡越しに私を睨み据える。「出て行こうとすれば、契約違反で違約金を請求する。……お前の母親の入院費、払えなくなるぞ」 息が止まった。 どうして、それを。母の手術の話も、お金のことも、誰にも言っていないはずなのに。「……調べたの?」「俺の家に入れる人間だ。身辺調査をするのは当然だろう」 事も無げに言い放ち、テーブルのミネラルウォーターを煽る。喉仏が上下する動きが、嫌というほど目に入る。 悔しさと惨めさで視界が歪んだ。彼は私の弱みを握り、この状況を楽
二階の廊下は、一階よりもさらに静まり返っていた。 突き当たりにある重厚な木製の扉。 カードキーをセンサーにかざすと、電子音と共にロックが外れる。ノブに手をかけ、ゆっくりと押し開けた途端、濃密な気配が流れ出してきた。 「っ……」 思わず息を飲む。 ダークグレーの壁紙に、遮光カーテンで閉ざされた薄暗い空間。今のアパートがすっぽり入るほどの広さの中央に、キングサイズのベッドが鎮座している。 そして、匂い。 リビングよりもずっと強く、鮮烈な「彼」の匂いが充満していた。 高価なコロンと、男性特有のムスクのような体臭、微かなタバコの残り香。頭がくらくらするような芳香は、四年前のあの夜、私を押し倒した彼から漂っていたものと同じだ。 (征也……) 名前を呼ぶことさえ憚られるような、圧倒的な存在感。本人は不在のはずなのに、視線を感じて足がすくむ。 逃げるように部屋の明かりをつけた。 無機質な照明の下、モデルルームのように整然とした部屋が浮かび上がる。けれど、ベッドサイドには飲みかけのグラスと、無造作に置かれた腕時計。 ここで彼が生活しているという生々しい痕跡に、胸が締め付けられた。 「さっさと終わらせよう……」 ワゴンから新しいシーツを取り出し、ベッドへ近づく。 乱れた掛け布団。誰かが横たわっていた窪みが残るシーツ。 シーツを剥がそうと手を伸ばした時、指先が枕に触れた。 ひやりとしたシルクの感触。 瞬間、電流のような衝撃が指先から脳天へと駆け抜ける。 ――『俺のものになりたいんだろう?』 あの夜の、低い囁きが蘇る。耳元にかかる熱い吐息、首筋を這う唇、シャツの中に滑り込んだ骨ばった手の感触。 恐怖と屈辱。けれど同じくらい、身体の奥底が熱く疼いた記憶。 初恋だった。私のすべてだった。 拒絶された傷は癒えていないのに、彼を感じるものに触れると、どうしてこんなにも切なくなるのだろう。 (……駄目よ、私) いけないことだとわかっている。
胸の奥で、心臓が不吉な早鐘を打った。 指名――私が? あんなにも怯え、逃げるようにして邸を後にしたというのに。 『それでね、今後も専属でお願いしたいって。時給もこれまでの比じゃないわ。こんな好条件、滅多にない――』 「……お断りします」 思考が追いつくよりも早く、拒絶の言葉が唇から零れていた。 「申し訳ありません。あそこの空気は……今の私には、あまりに重すぎるんです。どうしても、心がついていかなくて」 『えっ? どうしてなの?』 「他の場所なら、どこへでも伺います」 困惑する相手の言葉を遮り、祈るような思いで受話器を握りしめた。 「どんなに厳しい現場でも構いません。体力を使う仕事でも、汚れ仕事でも、何でも引き受けます。だから、あそこ以外で……別のお仕事をお願いできないでしょうか」 必死だった。 たとえ姿が見えなくとも、あの人の気配が色濃く残る空間に身を置くだけで、自分という存在が崩れ去ってしまいそうで恐ろしかった。これ以上、近づいてはいけない。本能がそう警告していた。 電話の向こうで一瞬の沈黙が流れ、担当の佐藤さんの声から、それまでの明るい色調が消え失せた。 『……月島さん、正直に言うわね。これは単なる希望じゃなくて、実質的な決定事項なのよ』 紙を捲る、冷ややかな音が鼓膜を叩く。 『先方は「他の人では代わりにならない」と強く仰っているの。もし断るなら、天道様はうちとの契約を白紙に戻すとお話しされているわ。そうなれば、会社としても今後あなたにお仕事を紹介し続けるのは難しくなる……わかるわよね?』 細く息を呑む。 断れば、待っているのは行き止まり。言葉の裏に透ける無言の圧力に、外堀を埋められていくような絶望を覚えた。あの人の不興を買えば、ようやく手にした生活の糧を失うことになる。 『でもね、提示された条件は破格よ。時給の大幅な引き上げに、特別手当。それに……』 佐藤さんは再び声を弾ませ、甘い誘惑を注ぎ込むように言葉を継いだ。 『「契約期間中は、当方のスケジュールを最優先にすること」。事実上の専属契約ね。詳細を記した書類は、じきに自宅へ届くはずよ』 逃げ場を塞ぎ、金という鎖で繋ぎ止める。 かつてその傲慢さゆえに振るった力で、今度はあの人が、私を支配しようとしているのだ。 「
茜色と群青が溶け合う夕暮れ時、ようやく家へと辿り着いた。 築三十年を数えるアパートが放つ、湿り気を帯びた古びた木の匂いが鼻をつく。それが今の私に相応しい現実なのだ。けれど不思議なことに、あの息苦しいほどの輝きに満ちた場所から解放された安堵に、そっと胸を撫で下ろしている自分がいた。 「ただいま、お母さん」 「おかえりなさい、莉子。今日は早かったのね」 布団の中から身を起こした母の顔色は、朝よりも少しだけ赤みが差していた。それだけで、張り詰めていた心の糸がふっと緩んでいく。スーパーで手に入れたレトルトのお粥を温めるため、薄暗いキッチンへと向かった。 「ねえ、お母さん。そこの依頼主って、どんな方なの? 派遣会社からは何か聞いてる?」 「ええと、確か三十歳くらいの若い実業家の方ですって。天道グループというところの社長さんらしいわよ」 「天道……」 その名をなぞった瞬間、唇の先が痺れるような錯覚に囚われた。やはり、あの人だったのだ。 母は、彼がかつての隣人であることなど露ほども思っていないはず。当時の彼。母の目に映っていたのは、名も知らぬ隣家の少年でしかなく、気にかける対象ですらなかったのだから。 「独身なんですって。あんなに大きなお屋敷に一人なんて、寂しくないのかしらね」 「……独身、なのね」 お粥をかき混ぜる手が、不意に止まる。 白い渦を見つめる視線の奥で、仄暗い熱がじわりと広がった。 それは、安堵にも似た、許されない喜び。 あの日、私が無惨に壊してしまった関係。あれほど深く愛し合っているように見えた彼女とは、結局結ばれなかったのだろうか。 それとも、あの氷のような瞳を持つ人は、今もまだ誰のことも愛してはいないのか。 よかった。 浅ましくもそんな想いが胸をかすめ、自己嫌悪で指先が震える。 もう関係のないことなのに。自分には、あの方を想う資格など欠片も残されていないというのに。 湧き上がる歪んだ情動を、無理やり鍋の底へ沈めるように、強く、激しく手を動かした。 もう二度と、あそこへは行かない。 派遣会社には、実家の隣だった場所で心が痛むとでも理由をつけて、担当を変えてもらおう。そう決意していた。逃げなければ、飲み込まれてしまう。本能がそう告げていた。 けれど私は知らなかったのだ。